リレーエッセイ

私と漢方との出会い

私と漢方との出会い

リレーエッセイ | 第30号投稿記事(2024年9月)  梁 哲成 先生

私と漢方との出会い

ほんとですかあ~?

梁 哲成

やんハーブクリニック院長

 30数年前、初春のある日、大学の小児科研修を一通り終えて沖縄の病院に勤務を命じられた彼は、当時まだ新築前の鄙び寂れた狭苦しい那覇空港に降り立った。空港を出るとムオっと全身に粘るような湿気がまとわりついた。航空会社のTVコマーシャルの爽やかで清々しいイメージを期待したが見事にこれは裏切られ、足元からは猛烈な湿気が蒸し上がり、上空はベトナム戦争終戦後の米軍の沈滞気分そのままの暗雲が垂れ込めている。(後で知ったことだが、そもそも沖縄は日本年間快晴日数ランキング最下位、年間相対湿度1位であり、この暗雲と湿気はいつものことなのだ。)そこから左足を胡坐に組んで煙草を燻らせながら敬語も使わず1語文か2語文だけで不愛想に応対しながら運転する個人タクシーに乗り那覇の泊港に着くと、あらかじめ送っておいた全所有物(布団といくらかの本と雑貨など)をすし詰めにした愛車シビックSiを拾い、国道330号で北に向かった。かの巨大で重々しい嘉手納基地を肩いっぱいに背負った沖縄市に入るにつけ、午後の真っ盛りにも関わらず古ぼけシャッターだらけの街並みがなお一層重苦しくこれから過ごす日々への不安を駆り立てるのだった。待ちゆく人々は、これも彼の期待を裏切り(当然ハワイのリゾートビーチのように、水着姿やせめてTシャツ短パンのような若者たちがひしめき合っているものと思い込んでいた)まるで見知らぬイスラム国に迷い込んだように女たちは全身を覆い隠している。そんな中、ぼんやりと雨だれにまみれてくすんだコンクリートの建造物が浮かび上がると、そこは彼には田舎に隔離された鑑別所のようにも思えた。
「ここか・・」
目的の病院に到着すると、さっそく事務局に向かった。事務長にまずは小児科部長に挨拶に行きたいと申し出ると、外来の最中の部長に紹介された。「よろしくお願いします。」と挨拶をすると、部長が「君か。よろしく。それじゃさっそく外来をはじめて。」と言った。まだ官舎にも案内されず、車から荷物もおろさず、病院のその他の誰とも挨拶を交わすこともなく、多分多くあるだろうルーティーンやルールの説明も受けず、そのまま白衣を渡され、(もちろん労働条件などその後も聞かされることもなく、というかそんなものはなかったが、)その日はさっそく外来を始めることになり、数名の入院患者がでるとその主治医になり、外来終了後彼らへの入院管理指示を終えると、帰宅は霧雨の中、傘もなく23時ほどになっていた。
 その頃の日本の多くの女性は子を持つと専業主婦となり、(殊に家族制度と男尊女卑の強い沖縄ではよほど優秀な女性であってもそれを求められた)子供は小学校までは自宅で過ごしたものだ。幼稚園に通う子供は比較的恵まれており、いわんや保育園に通う乳幼児などはほとんどいない。現在は多くの女性は仕事に就き、子供たちは1才を迎えると保育園に通うようになる。そのことからだけでも社会はあらゆる点で様変わりさせられる。その一つに小児科外来の季節性がある。かつては冬の外来は感染症の猛威によって喧噪と混乱に晒され、夏休みに入ると一転して静寂と安寧に包まれる。小児科外来の受診患者数の夏冬格差は3倍以上にのぼる事も普通にあったのだ。

兄から送られた書籍
左:中医学基礎(神戸中医学研究会編)
右:漢方診療医典(南山堂)

 翌年の夏、病院勤務にも慣れ、入院患者も外来も少なくなると、暇を持て余した彼は医局で寝転がって相撲を見ていた。ある日そんな彼に嫌気をさした部長が言った。
「遊んでないで仕事をしなさい!」
「いや、仕事は全部済んでます。」
「だったら勉強でもしなさい。」
確かに周りを見ると、何人かの暇を持て余した医師らは勉強のをしているではないか。こういうのは苦手な彼は何をすればよいか迷った挙句、東京の兄に電話をした。兄は薬剤師の世界ではかなり有名な中医学の塾長を務めていた。その兄に何か漢方の入門書はないかと問い合わせたのだ。すぐに東京から2冊の本が届いた。左は理屈ばかりが記され、右は病名別処方と処方解説ばかりが記されている。漢方や中医学についてからっきしの彼は、てっきり左が基礎理論入門書で右が実践臨床書と思い込んだ。そこで基礎理論から学ぶのがよかろうと読み始めるとこれが大変面白い。恐るべきことに、統一理論があるではないか。『邪気盛んならば実、精気奪わるれば虚』『実すれば之を瀉し、虚すれば之を補う』この所謂~補瀉虚実~の基本法則で、人のすべての疾病の病理を説明し、治療を行えるというのだ!まるでニュートン古典力学のF=dp/dtですべての運動が予測できると言うが如きではないか。医局のソファで寝ころがりながら夢中になってこの本を読んで1週間もすると、
「おい、何を読んでるんだ。いい加減、仕事をしなさい。」と部長にまた言われた。
「仕事は終わりました。だから勉強してるんです。」
「何?」
「これ、めちゃくちゃ面白いですよ。」
「なんじゃこれ?漢字ばかりじゃないか。」
「漢方の本なんですよ。」
「?・・ふん、医者のくせして勉強ばかりしている奴があるか!」
「??」(勉強しろと言ったのはあなたじゃないか)
「そんな暇があるなら、さっそく漢方外来を始めなさい。」
「えっ?!?」
 彼は漢方の勉強をはじめて1週間ちょっとで漢方外来をさせられることになった。今では考えられないことだ。数年かけてメジャー科目の専門医になり、さらに数年かけて漢方専門医になり、そこでやっとの思いで外来を任せられる。院内の薬局に問い合わせたところ漢方エキス製剤は数種類しか在庫はないという。そこで兄に問い合わせた。
「漢方外来をやれと言われたが何を準備しておけばよいか?」
「とりあえず30くらい準備しておけばよかろう。」
リストにして送ってくれた。部長にこれを準備してほしいと頼むと二日後にはすべて入荷した。これも今では考えられない。
 翌週の木曜日の午後、初めての漢方外来が始まった。漢方外来と銘打って宣伝したわけではないから全く患者が来ない。(そうか、そりゃそうだよな。こりゃまいったな)1時間も経つと、一人の女子高生が母親に連れられて入ってきた。隣で夜尿症外来をしている部長の紹介だった。両下肢全体に紫斑がある。ショーライン・ヘノッホ(S-H)病だ。紫斑は消えては新たに出てくるため、この1年間、両下肢全体に絶え間ないという。カルテを見ると、気休めにビタミンCやら何やらの効かないと分かりきっている薬が処方され、自然治癒を待っているだけだ。治せる見通しのない患者を押し付けられた気分だったが、困り果てた患児とその母親の姿をみると哀れに思えた。(さあ、診察、診察) 心を切り替えて問診を取ろうとした。が・・・・何も思いつかない。診察をしようとした。が・・・・どこをどう診ればよいか、皆目見当がつかない。ああ、そうだ。どんな素晴らしい医学をどんな素晴らしいテキストで学んだところで、すぐに良い診療ができるわけがないじゃないか。そういえばベンホーガンのモダンゴルフの序文に『あなたがこの本の通りに学べば、3ヶ月以内に80が切れるであろう。』とあった。しかし彼は100を切るのに1年かかった。毎週3,4回もレンジに、月2,3回もラウンドに通って。それでも早い進歩だと褒められたものだ。本を1冊読んだだけで何ができようか?あの本にあった医学体系は素晴らしく美しい。どんな病でも一瞬で治せるかと錯覚させる魔法の力を宿していた。しかし、一度もラウンドをしたこともなく、いやゴルフクラブに触れたこともない者が、たった1冊のゴルフ入門書を読んだだけで突然ゴルフ場のティーングラウンドに立たされ、ドライバーショットを促されたとき、どうなるであろう?ただ茫然と立ち尽くすのみだ。そして外来の椅子に座っていた彼も同じであった。

漢方診療医典(南山堂)の紫斑病のページ

 困果てた沈黙の時間が過ぎた。と、次の瞬間思いついた!「お母さん、この子の尿を取って来て下さい。」S-H病ではしばしば糸球体腎炎を併発するので尿検査もしておきましょう。と言って二人を診察室から追い出すと、すぐに医局に走った。慌ててあの右の本(漢方診療医典)を探した。紫斑病の頁を開くと・・明らかにS-H病と思われる症例が載っている。そして、そこには『柴胡桂枝湯ほどによく効いたものはなかった。』とあるではないか!!漢方入門者の彼でも知っている超有名漢方方剤で、もちろん病院薬局においてある。よし!と期待と不安に駆られつつ外来に戻り、分かった風を装ってそれを処方したのだった。2週間後、外来が始まると、最初の患者がその子だった。呼び入れると、果たして・・・・二人は小走りに診察室に入って来るやいなや矢継ぎ早に、
「先生、ありがとうございます!」「こんなに、よくなってます~!!」
彼はすぐに少女の下肢に目をやると
「え~!ほんとですかあ~?!」
なんと、下肢全体に密集していた紫斑がただの一つも見当たらないではないか!
“患者の親より、医者がびっくり!!” 

 どんなに名打者であっても、打率は4割もない。3割打てれば一流だ。ところが未経験の彼は、突然試合に出されると、初めての打席でよりによって逆転ホームランを打ってしまったのだ。この実力に到底見合わない初体験が、彼の人生を変え、迷走に向かうことになるとも知らずに。。。