日本漢方医学教育振興財団 理事
JR広島病院 理事長/病院長
広島大学 名誉教授
1964年東京オリンピックが華々しく開催されたとき、私は9歳でした。小学校3年生の少年の目に日本体操界の活躍が強烈に焼き付いて、鉄棒やマットなど器械体操の虜になりました。折しも課外活動で当時の体育教師が有志を集めて器械体操(鉄棒やマット体操)の指導をしていたので当然のように仲間入りさせてもらい、マット上の倒立やそれに続く連続ワザ(体操競技でいえば床運動)を磨く傍ら、鉄棒でも倒立や車輪などを行うレベルに達していきました。その延長線上に悲劇(?)が待っていて生活を一変させたことが漢方との出会いとなりました。
ときは1965年秋、広島大学教育学部附属小学校で恒例の教育実習が行われていて、一人の実習学生(広島大学教育学部実習生)が担当クラスの生徒であった私の鉄棒手技に関心をもち実演を観たいと要望したため(と記憶しています)、ある日の早朝の授業前に校庭で披露したのですが、その車輪の最中(だったと思います)に鉄棒から落下して頭部を強打する惨事に見舞われ、駆け付けた担任教師に抱えられて学校医在籍の広島赤十字・原爆病院に搬送される事態になったのです。CTのない時代、検査は脳波だけという医療レベルでしたが複視と広範な顔面皮下出血で、私の両親は息子の生涯を悲観する瞬間だったと後日述懐していました。入院生活は1か月以上におよび、手術も特効薬もないまま、“とにかく安静“の日々を過ごしていた当時、薬剤師で漢方医であった父親が病院に内緒で私に毎日服用させたのが桂枝茯苓丸でした(そのように父親から説明を受けたと記憶しています)。効能から鑑みておそらく間違いないと思いますが、そもそも漢方には幼少期から身近な印象が強く漠然と効用を妄信していましたから違和感はありませんでした。当時薬局を最大で4店舗ほど営む父親は、住まいでもあった我が家に本店舗を構えて比較的広い来客との接見スペースに隣接して狭義の『薬局』と呼称する調剤室を設置していました。その調剤室『薬局』はガラス張りで来客からは多数の漢方薬が缶入りで何段もの棚に多数の列をなして整理されて壁棚に陳列されているのが見える構造になっていたうえ、父独自の調合を行い分包して客に処方していましたので、生薬の香りが我が家の香りとして幼少期に定着していたのでしょう。入院中毎日服用し、やがて軽快退院したという経験を今でも鮮明に思い出すことができます。
実は筆者は頭部CT検査を受けたことがなく幼少期の災難が如何なる痕跡を残しているのか調べておりませんが、その後の40年間に学習や運動に著しい不都合は無かったと思いますので、桂枝茯苓丸のお陰様ということでしょうか。この自験例を本稿で初めてディスクローズしてしまいましたが、私と漢方との出会いとして読者の皆さまにお伝えしました。何某かのお役に立てたならば幸いです。