広島国際大学薬学部生薬漢方診療学 教授
国立病院機構呉医療センター漢方診療科・太田川病院漢方診療センター
和漢医薬学会理事長・東亜医学協会理事長
第三医学研究会副会長・漢方塾代表
まず初めに、来年(2025年)8月23(土)・24(日)に第42回和漢医薬学会学術総会を大会会長として広島(広島大学霞キャンパス・凌雲棟)で開催いたします。この学会は漢方を科学する学会で、基礎と臨床の懸け橋となる学会です。『漢方薬がどのようにして効果を発揮するか、そして効果を発揮するのはどの病態であるのか』がわかれば、治療の応用の幅が広くなり、今まで使っていなかった病態でも漢方薬を使うアイデアが湧き出てきます。さらに、治療の再現性を上げます。是非、皆様の漢方診療の幅を広げるために、また漢方を科学する基礎研究の実情を知るために、学術総会にご参加いただければと思います。
さて、私と漢方との出会いについて話させてください。まず、私の祖父は漢方医(薬剤師でもあった)で、子供の頃から体調が悪くても漢方のみの治療を受けていました(図1)。それが我が家の常識で、全てが漢方中心でした。私を取り巻く環境には漢方が溢れていました。私には漢方医、西洋医の叔父達がいます。その一人の叔父の同級生(東京大学)が大塚恭男先生(大塚敬節先生の御子息)大沢仲昭先生です。家には、山本巌先生(東医雑録執筆、第三医学研究会創設)、松本克彦先生(公立病院初の東洋医学診療科の設立、兵庫県立東洋医学研究所長、兵庫県立尼崎病院東洋医学科長)、伊藤良先生(多数の著書を出版した神戸中医学研究会を設立、初代会長)がよく来られていて、私は子供の頃からお会いしていました(図2、3)。また、伊藤清夫先生、山田光胤先生など沢山の漢方関係の先生がお越しになられたのを覚えています。
祖父は、薬学部を卒業後エフェドリン発見の長井長義先生がおられた内務省の東京衛生試験所で基礎研究をし、英文論文も読む当時の漢方医としては変わった存在であったと思います。他にも変わった経歴があります、祖父の父(私にとっては曽祖父)が茅ケ崎駅の駅長で、線路に落ちた子供を助けるために命を落とし、殉職しました。今でも近くのお寺に建てられた石碑があります。祖父の父(曽祖父)の死によって、郵政省から奨学金をもらい大学を卒業したため、日本郵船の外国航路の船医となりました。だから海外の沢山の国の事を良く知っていました。私にとって祖父は、英語が読め、海外の事もよく知っていて、研究の事も知っていたため、漢方は英論文や海外での研究などが盛んなのだと思っていました。そのような祖父を見ていたので、私が子供の頃の漢方は一般の医師が行う医療ではありませんでしたが、私は漢方にプライドを持っていました。しかも、祖父の医院(漢方舎)では難病が治ると、口コミや見学に来られていた先生から素晴らしい効果だと聞き、子供の頃から漢方は凄いという思いがあったのです。もう一つ、思い出があります。祖父は、『流派を無くし漢方を医学に高めることが大事である』と話し、私と兄に対して『流派としての一貫堂は無く、医学があるのみ』と言っていたことを覚えています。第29回日本東洋医学会学術総会(1978年)にて祖父が会頭講演で話した、漢方による世界的医学の建設についての話など18ページに渡る “東洋医学の現状と将来の展望”の講演内容(図4、5)を大学時代に読み、この内容は私にインパクトを与えました。
このように、私の周りには漢方が溢れ、漢方の世界で育ち、祖父と祖父に係る先生の影響が大きく、そして漢方の古典と西洋医学の両方を考える治療に出会い、漢方を行うようになったと思います。
祖父が、漢方を学ぶためには西洋医学も知っておく必要があると言っていたこともあり、私は後の京都大学病理学教授の真鍋俊明先生と出会い、様々なことを教わり、いまでは兄弟のようになってしまいました。また、素晴らしい内科学教授である副島林造先生、河野修興先生、二木芳人先生の元で内科学を学び、漢方による薬剤性肺炎の世界で初めての報告(歴史上、今まで報告は無かった)をし、世界で初めての間質性肺炎マーカーであるKL-6の発見、開発(さらに薬剤性肺炎診断の応用)など新しい分野も経験しました。そして、そのような経過を経て漢方診療中心の世界へと入り、さらに私は深い漢方へと出会うようになっていきました。広島大学病院で漢方診療科の創設、国立病院機構呉医療センターで漢方診療科と太田川病院で漢方診療センターを立ち上げて現在に至っています。今後は漢方をさらに正しく普及させ、また大学、病院では次世代の医師に新たな漢方への出会いをつくるために、そして若手漢方医の養成を行っていきたいと思います。
まだまだ精進しないといけませんが、漢方への出会いについて記載しました。