奈良県立医科大学大和漢方医学薬学センター 特任教授
三谷ファミリークリニック 院長
一般社団法人 日本東洋医学会 会長
漢方との出会い・・・先生方もご存じのように、私は漢方を手がける医師だった父のもとで育ちましたので、体調を崩した時に服用するのはすべて漢方薬でした。食が細く、どちらかと言えば丈夫な子ではなかったので、調子が悪いと、すぐに父は「今日は坊主(私のことです)を休ませろ」と母に指示していました。印象に残っているのは、咳き込んだ時に飲んだ「酸っぱい味」のお薬(小青竜湯だったと思います)です。スーッと楽になったことは今でも記憶に残っています。ただ、今のような形でエキス製剤が包装されていたわけではなく、薬包紙に一包一包包まれており梅雨の頃などたった2~3日で湿気てしまいました。
不思議に思ったのが、小学校高学年以降です。私の症状がどのように変わっても「お前にはこのくすりや」と決まりきった漢方薬が出されました。咳き込もうが、頭が痛かろうが、下痢をしようがすべてこのくすり。大学の時も、いつも1番と9番が送られてきました。「おいおい、漢方ってこんな世界なん?」と、症状に合わせて治療する西洋医学との違いに驚きました。もっとも、質問は許されなかったので、真相はわかりません。
話は少し前後しますが、昭和48年(1973年)、大阪大学医学部衛生学教室を定年退官された丸山博先生を会長に、父の勤めていた大阪市住之江区の加賀屋診療所で「漢方薬に全面的に健康保険を適用する会」が発足しました。まだ私は高校生でしたが、丸山先生に「どれほど多くの患者さん・病人さんが漢方薬を求めているか、君は知っといた方がいい。話を聞いて、署名を集めておいで。」と指示され、せっせせっせと加賀屋に通っておられる病人さんとお話をする機会を持ちました。「ぼく(加賀屋ではこう呼ばれていました)、漢方薬はなあ、わしらの命綱なんや。健康保険の適応が叶ったら、どんだけうれしいか、わかってくれな。」 みんな必死なんや、この方たちの思いを何とか厚生省に伝えたい、お一人お一人の言葉が胸に突き刺さりました。大学に入学した昭和51年(1976年)に漢方薬に健康保険が適応になった時の病人さんの快哉、いまでも耳の底に残っています。
最後になりましたが、先般の第74回日本東洋医学会学術総会では、大変お世話になりました。会場内では真剣なディスカッション、フロアでは先生方の飛び切りの笑顔に接することができました。ご参加・ご協力いただいた先生方に心より感謝いたします。天秤で分銅を調整しながら漢方薬を包装していたことが昨日のことのようですが、あのころとは比べものにならないくらい漢方医学は発展しました。そのうえで、これからも「病人さんに還る」を肝に銘じ、先生方とともに歩んでゆきたいと思います。