熊本赤十字病院 総合内科 部長
熊本大学医学部 臨床教授
宮崎大学医学部 臨床教授
東邦大学医療センター大森病院
東洋医学科 客員講師
私と漢方の出会いは、現代においてはかなり異質なものだと思います。
私は家庭の事情で就学前は父方の祖父母の家にあずけられていました。祖父は明治後期の生まれでしたが、幼い孫に自分が幼少期に受けた教育をしてみようと考えたようで、漢文の素読に付き合わせられました。ここで、『論語』を中心に、『大学』、『毛詩』の一部をまだ平仮名もろくに覚えていない状態でしたが、音として親しみ、一部諳んじることとなりました。また『般若心経』も諳んじることが出来るようになりました。こうして、小学生になる頃には漢字の意味さえ分かれば漢文を素読して意味がとれるようになり、『老子』、『荘子』、『孟子』、『戦国策』、『易経』などを興味の赴くままに読んでいました。また、私の父方の故郷は、熊本市内から20km弱ほどの山間地でしたが、祖先は土豪で、わずかばかりの山地が残っていました。先祖から山の中をどのように歩き、食べられるものの採取法や、薬になるものの知識などのサバイバル術を受け継いでいました。父がそのようなことが好きであったこともあり、週末ごとに山に入って山野草を採集し、薬草を見つけること、またそれを使うことはごく自然なこととして受け入れていました。
中学生になる頃には、中国古典を通じて知った中国哲学を応用できる職業に就きたいと考えるようになり、中国哲学の学者になることも考えておりました。ただ、より実践的な方法で試してみたいという考えも捨てきれず、中国科学の粋は医学であり、中国医学をやってみたいとの気持ちも芽生えていました。そんな頃、私の通っていた中学校の図書室にどなたかの寄贈で丸山敏秋先生著『黄帝内経と中国古代医学』がありました。『黄帝内経』は『易経』・『神農本草経』と並んで、『三墳の書』として名前は知ってはいましたが、実際に読んだことはなく、その解説書と分かり、期末試験の後に借りてきて一気に読み通しました。こうして、中学校を卒業するころには、漢方医学の実践を目指して医師になることを志すようになりました。
当時の宮崎医科大学の合格通知が来た翌日には、早速、熊本で一番大きな本屋に行き、以前から目をつけていた、王新華先生著『基礎中医学』、小曽戸丈夫先生・浜田善利先生著『意訳黄帝内経素問』を買って入学までの間、読みふけっていました。
医学部に入学後は、一学年上の先輩が作った漢方医学研究会に早速入部しました。私の入学する5年ほど前から九州では長崎大学・佐賀医科大学・九州大学の学生を中心に漢方の合宿勉強会が年2回開催されており、私も1年生の頃から参加させて頂きました(現在は『九鼎会』という名で全九州から学生が集まっています)。その初参加の時、会場の長崎島原への往路で、当時、合宿勉強会の顧問をされておられた吉冨誠先生と車中をご一緒することとなり、漢方の勉強の仕方を教えて頂き、そのまま、師と仰ぐことになりました。吉冨先生のお導きで、その後の師となる安井廣廸先生の『医学生のための漢方医学セミナー』に参加させて頂き、中医学のイロハを平馬直樹先生に、古典考証を牧角和宏先生に教えて頂く機会に恵まれました。
大学4年生の時、当時京都大学総合診療部の教授をされておられた福井次矢先生の特別講義があり、自分が西洋医学の道でしたいものは総合診療であるとの考えに至りました。卒業後は、熊本大学総合診療部に入局しました。その関係で沖縄県立中部病院に臨床留学する機会を得ましたが、当時の部長であった徳田安春先生や、Dr. Jules Constant・宮里不二彦先生などの伝説級の内科医が病歴と身体所見で診断を当てていく技術をみて、漢方の大家の診療と変わらないとの思いを強くし、急性期病院で総合内科と漢方を実践していくことを目指すことと致しました。また、安井廣廸先生から漢方においてその歴史・先人の考えを掘り起こすと、そこに最先端につながるものが見いだせることを教えて頂き、自分の漢方の研究テーマを漢方の概念の由来とその変遷にすることとなり、今に到っております。
今後は、急性期に漢方全体を包括的に応用できる方法論の確立、古典を踏まえた漢方の概念の変遷からみた本質の研究・教育に携わっていければと考えております。