リレーエッセイ

私と漢方との出会い

私と漢方との出会い

リレーエッセイ | 第23号投稿記事(2024年4月)  伊藤 亜希 先生

私と漢方との出会い

伊藤 亜希

横浜薬科⼤学 漢⽅薬学科 漢⽅治療学教室 准教授

 
 ⼤学時代、当時薬学部は漢⽅ではなく⽣薬の授業が主であり、禁帯出の牧野⽇本植物図鑑を皆で取り合いながら、図鑑⽚⼿にレポートを書いていたことを思い出します。卒業後の製薬会社時代は薬理部⾨創薬チームに配属され、マグヌス管を使って⾎管内⽪保護作⽤のある降圧薬の研究に勤しんでいました。退社後の⼦育て時代はママ友から度々薬の相談を受けるようになり、臨床経験のない私は薬剤師デビューを決めます。そのデビュー場所として⼋丈島に唯⼀存在する病院を選び、薬剤師を極めたく薬の知識を⾝に付けていきました。しかし、漢⽅薬だけがよく分からず、漢⽅を学べる機会を待ち望んでいました。島の病院から慶應義塾⼤学病院薬剤部に移った時に、その機会が訪れます。薬剤部の掲⽰板には⾊々な院内勉強会のポスターが貼られていて、その中に漢⽅の勉強会のポスターを⾒つけた時が「私と漢⽅との出会い」だったと思います。

2つの傷寒論注解書

 当時の医局は渡辺賢治先⽣が率いていらっしゃいました。ポスターの勉強会は1回きりでしたが、先⽣は漢⽅を学びたい者には寛⼤で、その後も医局で⾏われる様々な勉強会に参加しました。まず参加したのが勤務前の早朝勉強会「傷寒論の輪読」です。初⽇、主⼈が学⽣時代に古本屋で購⼊したという、家に眠っていた傷寒論を持参して臨んだのですが、違いました。最初の驚きです。傷寒論といっても様々な伝本、注解書が存在するのです。次の驚きが、⼀⼈ずつ読んでいくスタイルです。8名くらいの会でしたが、内容もさることながら旧漢字を読むのが難しく、緊張しながら⾃分の番が回ってくるのを待ちます。⼀⼈が読んだ後に秋葉哲⽣先⽣が解説を付け、先⽣⽅と解釈を議論します。まだ議論の余地がある学問だったことにも驚きでした。私は⾼校時代に熱が下がらず2度⼊院しています。検査をするも原因が判明せず、そうこうしているうちに熱は下がり2度とも不明熱との診断になりました。1⽇何度も40度近い⾼熱と37度くらいの熱を繰り返します。⾼熱が出る前は体が⼤きく震えるくらいの悪寒がありました。輪読時に同じ症状が記載されているのを知り、最後の衝撃でした。当時の私に飲ませてみたかったと。その後も外来⾒学や症例検討会、臨床研究などにも参加しました。医局では基礎研究もされていて、留学⽣も多く、とても刺激的な学びの場でした。

渡辺賢治先生とご一緒した
ISJKM学会Oxford大学にて
80年以上続く
老舗漢方薬局

 次に、無理がきかない虚証である私は補剤の存在を知ります。効果は客観的にも確認でき、漢⽅薬を飲んでない⽇は我が⼦達にも分かるくらいでした。今では、私のような証の⼈を含め、世界中の⼈々に漢⽅薬を提供したいと思っています。
(番外編)⼩学校時代、夏には家の冷蔵庫に必ず⻨茶が⼊っていました。ある暑い夏の⽇に家に帰って真っ先に⻨茶を飲みます。ゴクゴクと⼀気に5⼝ほど飲んで⼀息ついたところで、ふわっと⻨茶じゃない匂いが広がりました。当時、親は漢⽅薬を煎じて飲んでいて、それを飲んでしまったのでした。この幼少期の出来事が最初の「私と漢⽅との出会い」かもしれません。その漢⽅薬は、私の⾼校の近くの漢⽅薬局で調剤したもので、当時私は飲むことはありませんでしたが、⾼校時代はよく取りに⾏かされました。商店街にあるその漢⽅薬局は、周りとは⼀線を画した雰囲気がありました。漢⽅薬のおかげでしょうか、私の祖⺟は⾃宅で百六歳の天寿を全うしました。