リレーエッセイ

私と漢方との出会い

私と漢方との出会い

リレーエッセイ | 第20号投稿記事(2024年2月)  伊野 美幸 先生

私と漢方との出会い

伊野 美幸

聖マリアンナ医科大学
医学教育文化部門医学教育研究分野 特任教授
総合教育センター センター長

 
「漢方」と聞いて意識に上る一番古い記憶は小学生の頃です。但し、正確には漢方の材料となる「生薬」についてですが、私にとっては今でも心に残る貴重な出会いでありましたので「生薬」について書くことをご容赦戴ければ幸いです。
 私は北海道の小さな温泉街で育ちました。冬には車の合い間をぬってシャンシャンと鈴を鳴らしながら道産子馬が体中から濛々と湯気を立てて馬橇を引く、そんな光景が当たり前の時代でした。
 その頃の温泉街には、アイヌ民族の方々による熊の木彫りやアイヌ伝統工芸品の店が立ち並び、店の前には子熊が子犬のように飼われていて、給食残りのパンや南瓜を喜ぶ子熊が可愛くて、毎日学校帰りに集う子供達のたまり場でもありました。
 ある日、大人達が誇らしげに「熊の胆(クマノイ)」という、一頭のヒグマから一欠片しか貰えない貴重な薬を見せてくれました。一対の板に涙滴のような卵円形の黒褐色の塊が挟まっていました。記憶が曖昧で 大人達の顔も話しも思い出せないのですが、そこに集った人々が信仰のような特別な愛着と敬意をもって「クマノイ」を恭しく丁重に扱っていたことを鮮明に覚えています。
 ヒグマはカムイ(アイヌ語で神の意味)の化身で、アイヌ(アイヌ語で人の意味)の友人であり、この友は自分の毛皮や肉はじめ個体の全てをアイヌへの置き土産にして、カムイとして天へ帰っていく、というのがアイヌ民族の伝承です。「クマノイ」に注がれた敬虔な眼差しは、生きている動植物が「薬」という存在となる尊さへの精一杯の祈りであり、日常とは全く次元の異なる大人達の真剣さに圧倒されて、信仰心など全くない子供にも、厳しい自然の中で繰り返された、かけがえのない友への感謝と哀しみが胸の奥深くに刻まれました。後に子供は医学生となり、クマノイは熊の胆嚢で、「熊胆(ユウタン)」という貴重な生薬であることを知りました。

胆嚢を挟む板 ニンケテイェプ
平取町立二風谷アイヌ文化博物館より提供

3000年以上の歴史を持つ学問を継承し、「漢方」の原料として「生薬」を守り、研究を続ける方々の想いと、太古から文字を持たず口伝の知恵で厳寒の地を生き抜いてきた民族の自然に対する畏敬の念に、何か似たような心の在り様を覚えて「生薬」に纏わる経験を綴らせていただきました。
 最後に、私の拙い記憶の手掛かりとして、胆嚢を挟むための一対の板からなるアイヌ民族の伝統工芸品ニンケテイェプの画像を提供して下さった平取町立二風谷アイヌ文化博物館の皆様に心より感謝を申し上げます。