平田ペインクリニック院長
織部塾塾生
漢方浪漫倶楽部 キャプテン
九州・沖縄・山口「痛みと漢方を学ぶ会」代表世話人
生まれた日を忘れても,その日のことは忘れないだろう.
医者になって15,6年,麻酔科専門医,ペインクリニック専門医を取得し,救急医療や集中治療も少しはかじって,生来ののぼせ気質も手伝って「なんでも来い,このやろー」気分で,私は九州のど真ん中,大分県日田市の基幹病院に麻酔科部長として赴任した.ペインクリニックの専門医は四方の山々をくまなく探しても私一人.「よーし!」とばかりに,ペインクリニック外来を始めた.そしたら患者さんが来るは来るは,坐骨神経痛やら帯状疱疹後神経痛やら,その辺の杉の木が患者に化けて来てるんじゃないかと思うくらい.
調子に乗って神経ブロックをガンガンしていたある日,ひとりの老紳士が外来に現れた.Sさんというその紳士は,夏だと言うのに(日田市の夏は暑い.当時まだあった水銀の体温計で測れた)ビシッとスーツを来て診察室の椅子に背筋を伸ばして座って,「腕が痛い」と言われた.出してもらった彼の左腕を見てびっくり.帯状疱疹がまだ生々しくびっしりと手のひらまでできていた(写真1).聞けば2週間ほど前に腕にぶつぶつができ,あっという間に広がって,近くの医者に診てもらったが痛みが全然取れない.痛くて眠られないとのこと.
「こりゃあ,外来では無理だ」と判断した私は入院してもらい,持続頸部硬膜外ブロックを行うことにした.
硬膜外腔にチュービングして,カルボカインに少量の麻薬を混ぜて,ポンプで持続的に注入する.「さあ,これで痛みは取れるだろう」と思った.ところが,彼は相変わらず痛くて眠られない.ブロックミスかと,いろいろ調べてもちゃんとブロックはできている.そこで,内服薬をいろいろ試し始めた.当時あった痛みを取ると言われていた薬はほとんど飲んでもらった.だけどダメ.Sさんはどんどん衰弱し,ほとんど寝たきりの様になった.食事も入らず,ほんとにこのまま亡くなってしまうんじゃないかと,本気で心配した.
と,ある日.いつもの様にさしたる知恵もなく訪室したら,彼の腕がビニールに包まれたタオルで覆われていた.触ると暖かい.付き添いの奥様に「どうしてこんなことをしているのです?」と尋ねると,「こうやって温めると痛みが楽になると言うものですから,お願いしているんです」とのお答え.その時,ほんとに何故だかわからないが,ある論文が思い浮かんだ.たしか,「温めると軽くなる帯状疱疹後神経痛にはなんとか言う漢方薬がよく効く」と書いてあったような?私は急いで医局に帰って,おそらく某漢方メーカーのMRが医局の私の机の上にこっそり置いていったと思われるその論文を読み返して(よく捨ててなかったものだ)その漢方薬が麻黄附子細辛湯であることを知った.
万策尽きていた私はすぐに薬局に電話して麻黄附子細辛湯なるものがあるかと尋ねると,ここ数年処方例がないがあるにはある,とのこと.ここで「そんなものはありません」と言われていたら,このリレーエッセイを書くことはなかっただろう.藁をも縋る思いで,私は麻黄附子細辛湯をその日の夕方に2.5g,翌日から7.5g,分3,食間で処方した.
翌日,手術室で麻酔をかけていた私に病棟から電話が入った.「先生,Sさんが起き上がって歩いてます」麻酔を部下に任せて,病棟に飛んで上がった私の目に,廊下の向こうで奥さんに支えられながら歩いているSさんの姿が飛び込んできた.Sさんは私に気づいて「よーっ」と言う感じで手を挙げられた.25年前のこの時の光景を私は今でも鮮明に思い出す.「何が起きたんだ?」私の目は文字通り点になっていたに違いない.
後で奥さんから「先生が何か特別な眠り薬を下さったと思ってました.あの夜主人があんまりスヤスヤ眠るもんですから」と言われたのも忘れられない.
びっくらこいた私は某漢方メーカーのMRに連絡を取って「ちょっと漢方薬を勉強したいから教えてくれ」と言ったら,「いい先生がちょうどおられますから紹介しましょう」と言って,私は大分市まで連れて行かれた.そこには折しも山田光胤先生から「弟子をとっても良い」という卒業証書をもらって,燃えに燃えた織部和宏先生がおられたのである.「はい,じゃあ僕んとこで勉強しましょうね」という話になって,他の4人の医者達と織部塾が始まった.「傷寒論,金匱要略は暗記されているものとして始めます」と言う若き日の織部先生の開口一番の言葉も忘れられない.暗記どころか,こっちは麻黄附子細辛湯しか知らんわけで,この後私たちがどんな目にあったかはご想像にお任せする.2カ月に1回の織部塾は尾臺榕堂の「方伎雑誌」の講読を中心に,漢方のあらゆる面に話が膨らんで,1時間半の塾が終わる頃にはもうクタクタ.それから食事に行って,その後スナックに行って,カラオケの合間も「そんな時には@#@#湯や!ダメな時は%$#散を合方するんや!」と喋りまくる織部先生の口訣を紙がないからスナックの箸袋に書いたりして,どうかすると2時過ぎてもまだ止まらない漢方の話を「先生,あした(と言うか今日)ゴルフでしょう」と言って,なんとかお開きにするのも珍しいことではなかった.そんなこんなで,私も漢方医の端くれになってしまった次第. 思い返せば,あのSさんの帯状疱疹,あの論文,あの麻黄附子細辛湯,すべてが偶然と言うにはあまりの偶然.まったく,あの日のことは生まれた日を忘れても忘れないだろう.